NEPAL HIMALAYA   MERA PEAK(6473m)

                         登 山 報 告 書

                                     山岳会Topへ

1.         登山隊の名称      ネパール ヒマラヤ メラ ピーク 登山隊

2.                        栃木県南地区山岳協議会

3.                        更なる高所登山への一ステップ

4.                        2003年4月20日(日) 〜 5月11日(日) 22日間

5.         費 用            60 万円 ( 30 万円 /人)

6.         隊の構成

                            竹 沢  雄 三 

所属山岳会:宇都宮クライマ-ズクラブ グループ・ド・ミソジ

                            長 岡  正 廣

所属山岳会:小山山岳会

 留守本部           粂 川  章

 現地代理店           Kiran Bahadur Magar

                      Post Box #10688  Kathmandu Nepal

                      Phone 0977-1-442088,-438585    fax 0977-1-437592,-443406

メラピークの写真へ

概 要 行 動 報 告
4月19日(土) 小山より夜行バスにて関空に向かう。
4月20日(日) ロイヤルネパールの飛行機にて上海経由 ネパール カトマンズへ
4月21日(月) カトマンズ ( 1300 m ) より小型機にてルクラ ( 2800 m ) へ。キャラバン開始 チュタンガ手前泊 ( 3100 m )
4月22日(火) テン・カルカ ( 3900 m ) 泊 ( 4300m高度順化 )
4月23日(水) ザトル・ワラ 峠 ( 4600 m ) → チェトラ ( 4100m ) 泊
4月24日(木) コテ ( 3550 m ) 泊
4月25日(金) タナ ( 4356 m ) 泊
4月26日(土) カーレ BC ( 4900 m ) 泊
4月27日(日) カーレ BC ( 4900 m ) ⇔ Hi キャンプ ( 5750 m )
4月28日(月) 雪の為BC停滞
4月29日(火) カーレ BC ( 4900 m ) → Hi キャンプ ( 5750 m ) 5930m高度順化 この頃より雪
4月30日(水) アタック 5時45分発 雪、風、ホワイトアウト、ヒドンクレバスにより10時30分 約6250 m で断念。→ 
                  カーレ BC 以後 2日まで悪天候
5月  1日(木) バックキャラバン カーレ BC → コテ
5月  2日(金) コテ → チェトラ
5月  3日(土) チェトラ → チュタンガ
5月  4日(日) チュタンガ → ルクラ 
5月  5日(月) ルクラ → カトマンズ  
5月  6日(火) カトマンズ(日本大使公邸 栃木県烏山出身 神長大使訪問)
5月  7日(水) カトマンズ
5月  8日(木) カトマンズ
5月  9日(金) カトマンズ
5月10日(土) 竹沢先生:カトマンズ → バンコク経由成田へ(タイ航空)  「ながおか」:カトマンズ → 関空へ(ロイヤル ネパール)
5月11日(日) 「ながおか」 関空着 → 16時過ぎ 小山へ

詳 細 行 動 報 告
4月19日(土)
 夜10時前 小山駅西口より真岡始発、大阪行きの夜行バスに乗る。乗客は小山から私を含め2人、栃木から3人の計5人。乗務員から好きな所に座って良いと言われる。
 東北道栃木インターに乗る約40分の間に酒2.5合を飲み、リクライニングシートを倒し、思考停止、睡眠モードに入る。

4月20日(日)
 6時頃、京都近くで目が覚める。天王寺から電車で関空に向かう予定が、梅田から関空行きのバスが出ており、早くて、安い(880円 まるでファーストフード並)とバスの乗務員からアドバイスを受け、6時40分梅田のバスターミナルで降りる。
 山の格好をした関空に向かう周りの人を見ながら、コンビニで買ったパンと缶コーヒーを胃袋に収める。
 8時20分(所要時間 40分)関空着。関空は初めてなので、勝手が分からない。

 ロイヤルネパール受付カウンタを確認し、先に送っていたザックを引き取りに行く。雨が降り、蒸し暑く、薄暗い中、受付時間の10時30分までザックを離れずに待つ(今回は、先発の竹沢さんとネパール ルクラで落ち合うことにしたので、それまで単独行動となり、ザックの盗難を考えると離れられない)
 受付カウンタでは預ける荷物が規定の20 kg より9kgオーバーとなり超過料金 14,400 円 (1,600 円 X 9 kg) 請求され、費用を安く押さえる工夫をしてきたのに、余分な出費は痛い。受付業務代行のANA関係の女性従業員になんとかなりませんかと言ったら、サブザックは大き過ぎて機内持ち込みはダメだが、ハンドキャリーの大きめの袋に入れられるだけ入れて、預ける荷物を減らしたらどうかと言われ、なんとか6 kg まで減らした。それでも9,600円の超過料金は払わざるをえなかった。(出発前にロイヤルネパールは重量に厳しいと聞いていたが、超過料金を取られるとは思わなかった)
 
 RA 412 定刻12時30分に出発。上海までの2時間の間にワイン 2杯、ブランデー少々を飲み、ご機嫌になる。機内はTV、音楽のイアーホーンも無く、極めてシンプル。緊急時の対応も乗務員がマスク、ライフジャケットの付け方を現物で説明。機内食はチキンとフィシュの選択でチキンを選ぶ。日本製と思うが味はイマイチ。

 上海空港では全員降ろされ、迷ったらルートファインディングが難しそうな遠く離れた待合室に案内される。係員(警察、空港関係者)の大半が3月中旬より香港で騒がれ始めたSARS(新型肺炎)の空気感染を恐れ、マスクをしている。乗客も飛行機から降りた時から自主的にマスクをする人がいる。約1時間 隔離された部屋から一歩も外に出られず待つ。空港の建物は大きく、近代的だが、飛行機貨物室への積み卸しの荷物の取り扱いは手作業とバランスが取れていない。

 18 時15分(時差 3時間15分 日本時間21時30分)と思われる時刻にカトマンズ空港着。空港は28年前の面影は無く、広く、綺麗になっていた。ビザは空港で30$で取得出来るので、日本では取って来なかった。申請用紙もインターネットの誰かのホームページの添付 pdf fileをA4にプリントアウト、それをB5サイズに縮小し、記入、写真を貼付して持って来た。それとは別に関空出国時、ビザはカトマンズ空港で取ると言ったら、申請用紙をくれた。

簡単な入国手続き後、Tax Freeのウィスキー「シーバス リガール中瓶」を買い、手荷物の検査を終え、キャスタが壊れている台車にザックを積み込み、迎えの群衆の中にガイドのキランさんを捜す。私の顔はトレッキングビザ申請用に送っていた写真で判っているので、キランさんは向こうから近づいて来た。

 歓迎の白いマフラーのようなものを首にかけて貰い、タクシでホテルに向かう。今日は反政府デモの為、タクシが少ないそうだ。町中に入っても裸電球の灯りが薄暗く、その中を大勢の人が歩いている。タクシは人、自転車、バイクを避けるようにクラックションを鳴らしながらハンドルを切り、昔懐かしいネパール独特の匂いがする中を進む。
 相乗りの中年日本女性は日本人のODA関係者がよく泊まるというペンション 「さくら」の前で降りる。

 当初 ブルーダイヤモンド ホテルに泊まる予定が、あまりにも貧弱なホテルとの情報により、少し良いタメール ホテルに変更した。(アイランドピークの大内さん、茂呂先生は行きは ブルーダイヤモンド ホテル、帰りはタメール ホテルに泊まった)チェックイン後、8時頃からレストランでビールを飲みながら費用の残金約1300$を支払い、大内さんから預かったアイランドピークの写真を渡し、明日の行動予定について打ち合わせる。朝5時30〜40分頃迎えに来るので、5時には食事を済ましておくように、また今晩の夕食と明日の朝食はキランさん持ちのとの説明を受ける。キランさんが帰った後夕食を待っていたが、二十数名の団体客の食事もなかなか出来ず時間も掛かりそうだし、5時頃の機内食で余り腹も減っていないので、食べないまま10時過ぎ部屋に引き上げる。シャワーを浴び、衛星放送のTVを見ながらウィスキをなめ、12時頃就寝。

4月21日(月) 行動 1日目
10:30 ルクラ   13:20 チュタンガ手前(テント)
 2、3時頃から飲み過ぎてゲエゲエ吐く音や出発の準備を大声で話す物音で、真夜中から騒がしくて眠れなかった。

5時にレストランに行くと、従業員3、4人が椅子を列べて眠っており、食事の支度どころではない。75年に来た時もホテルの小間使いの少年は、階段の下の床に寝ており、下っ端の従業員には部屋など無いのだろう。これもカーストの影響か。目玉焼き、トースト、ジュースの朝食を済まし、コーヒーを飲んでいるとキランさんがタクシーでやって来た。
 キランさんに夜中 蚊の飛ぶ音とネパール人の家族が煩さくて眠れなかったと話をしたら、それはインド人の家族だと言った。確かにネパール人でホテルに泊まる家族はごく一部の金持ちに限られるから、顔つきや服装が似ていてもホテルに泊まるのはインド人に違いない。

 空港に向かう途中、埃っぽい道路を走っている数人を見かける。経済的に走る余裕が出てきたのだろうか。6時過ぎ国際線の隣の国内線のターミナルに着き、キランさんが15kg/人以上の荷物超過料金を払い、各自ボディ-チェックを終え、待合室にて待つ。段々と人が増え、部屋に陽が射してきて暑くなりだす。人々は次々と小型飛行機に乗り飛び立つが、なかなか我々の番にならない。かなり遅く来た人も出発する。2時間以上も待ち、いい加減くたびれた頃、「Sita Air」と呼ぶ声がする。再びボディ-チェック後、ボロのバスで飛行機まで移動、搭乗する。コックピットに近い二番目の席に座ると、女性乗務員(15人程度の飛行機にも女性乗務員がいる)が、キャンディと脱脂綿を配る。脱脂綿の使い道が判らなかったが、耳栓らしい。確かにプロペラ機のエンジン音は煩い。

 エアーポケットで数m急降下するアクシデントが有ったが40分程でルクラに着く。竹沢先生が来ているかと捜すが姿が見えない。竹沢先生も待っていたが、いつまで経っても来ないので飛行場のすぐ横のH.シェルパ ロッジに引き上げたらしい。ロッジに荷物を運び入れ、ハイポータ、コック達と顔を合わせる。

中庭でチャ(紅茶)を飲んでいる時、見たような顔のシェルパがやって来た。声をかけたら、なんと28年前の75年 

チュウ-レン ヒマール(7,371m)遠征のパサンというシェルパだったのです。向こうも私の顔を覚えていて、当時のなつかしい話で盛り上がる。
 私と共に頂上に立った大酒飲みでよく寝小便をしていたフル・テンバは酒が原因か判らないが、死んでしまった。もう一人のシェルパは村で商売をしている。彼は明日からアイランドピークに出かけるが、今日は4時間離れた自分の村に帰るそうだ。

彼は10年前にエベレストに登り、56才の今は、シェルパ ガイドやエージェンシの幾つかの役員をしている顔役で、mail addressも持っている(今は主立ったシェルパはmail addressを持ち、世界の顧客と日夜連絡しているようです。もちろんシェルパがパソコンを使えるわけが無く、パソコンが使えるネパール人が、各シェルパのmail addressを幾つか持ち、mailの代行をしているようです)  カトマンズの街にはインタ-ネットが20ルピ-(32円)で使えるカフェが至る所に有る。

1300mのカトマンズから2800mのルクラにいきなり来たので、まだ高度順応が出来ず少し息苦しく、日陰に入ると寒く感じる。

ルクラで不足の物を買っているキランさんを置いて、竹沢先生、ハイポータのグンさんと出発する。石楠花(ラリグラス)を切って薪にしたものを背負った少年達とすれ違う。現在は自然保護の為、遠征隊、トレッキングパーティは燃料に薪は使えないが、現地の人は許されるのか。またゴミも持ち帰ることになっている。

休憩を含め2時間50分でチュタンガの手前( 3100 m )に着く。チュタンガはテント場が土だが、此処は草原で気持ちが良い。コック達が昼食の準備をしている最中に雨が降り出し、それがヒョウに変わり、気温も下がりはじめた。 ガイド1名、ハイポータ 2名、コック 1名、キッチンボーイ 3名、ポータ 6名、ネパール側計 13名と我々 2名は周りの壁が石、屋根は編んだ竹にブルーシートをかけたバッティ(茶店)に避難する。そこで調理を行い、昼食を済ませ、雨の止むのを待つ。止むはずの雨が段々激しくなり、雷雨になる。雨ではする事も無いので、日本でいつもしているようにロキシー(焼酎)を飲み始める。高度順化に行く予定が本日は此の高度でお終りだ。煙突が無いので、燃やしている薪の煙がバッティに充満し、煙たい。

 19時夕食、スープから始まり、メインディシュ、デザート、お茶が出る。お代わりを勧めるので、調子に乗りお代わりを頼むと、メインディシュ、デザートを食べ残すことになる。20時就寝。23時頃までポータ達が唄を歌っていた。

4月22日(火)  行動 2日目
5:30 起床   7:40 チュタンガ手前発  10:15 テン・カルカ ( 3900m )  12:20 高度順化後 テン・カルカへ

 キッチンテントでの話し声で起きる。モーニング ティ(チャ)を飲み、洗面器に用意されたお湯で顔を洗う。チャは相変わらず甘い。竹沢先生は甘過ぎるので、砂糖を減らすように注文を付ける。

チュタンガ手前から約30分でチュタンガに着き、そこのバッティで20分の休憩。1ピッチの行動時間が短い割に休憩時間が長いと思うのだが、先が長いので余り焦ることも無いか。キャラバンの行程はガイド、ハイポータ任せになる。途中軽い下痢になり、少し高度障害が出てきていると思うが、頭痛、息苦しさは無く、体調も悪くない。体調管理はこれまでの高所登山の経験が役に立つ。急登を終え石作りのがっしりしたテンカルカに着く。テン・カルカのバッティで30分休憩後、竹沢先生、ハイポータのグンさん、私の3人で雪渓を登り4300mまで順化に行く。途中からガスり始め、雪も降り出したのでトラバースを少し行った地点で引き返す。

 雪もくさっており、さほど傾斜も無いと判断しアイゼン無しで来たが、下りは滑りやすく、滑らないように両方のストックでバランスを取りながら、下る。午後より曇り後、雨。 此の高度になると寒い。

4月23日(水)  行動 3日目

6:40 テン・カルカ発   8:50 ザトル・ワラ 峠 ( 4600 m )   11:15 チェトラ ( 4100m )

 今日の行程の大半は雪上の行動なので竹沢先生と共にアイゼンを着ける。先行しているポータに30分で追いつく、

クラストした雪面にアイゼンが良く利く。トラーバース部分でザイルをフィクスし、それを使ってキッチンボーイ、ポータ達を登らせる。

 運動靴のままや靴底が滑らないように縄をグルグル巻きに工夫を凝らした者など、様々なスタイルで登ってくる。

2回目のトラバースが終わった時点で休んでいたガイドのキランさんの有り金、装備等一式が入っているザックが雪渓上を滑り落ちた。幸いにして、300m下の見える場所で止まったが、ガイドが落るような場所にザックを置くなんて、少し不注意じゃないかと竹沢先生と話をする。

テンカルカのバッティにいた他のガイドがザックを拾い上げ、持って来るようだ。雪渓の上部は30度位の傾斜なので、滑落したら止まらないだろう。チェトラで会った帰りのガイドが、行きでポータ二人がここで滑落し、死んだと話をしていた。

35度、80mの雪面を登るとザトル ワラ 峠 ( 4600 m ) に着き、タルチョ(旗のような物)が安全祈願の為、奉って有る。

そこから約1時間雪の中をトラバースすると二つ目の峠(登りがあまり無いので、峠という感じはしない)が有り、直下には無人のカルカが有った。その先は雪も無く、涸沢のザイテングラードのようなところを下って行く。

チェトラには2軒のロッジが有り、1軒は大きな岩から少し離れたところ、もう1軒はそこから5,60m下ったところに位置する。

我々が泊まる予定のロッジは若いお母さん(二十歳過ぎか)と1才半位の男の子、手伝いの女の子で切り盛りしている。彼女達は3月にルクラから峠を越えて此処に来たらしい。赤ちゃんを連れて雪の峠越えはさぞ大変だっただろう。

ここは両側に山が迫っておりカールの底のようだ。曇って来たので部屋でくつろいでいたら、帰りの3パーティのメンバ-12、3人、ガイド、ポータ等5、60人がチェトラに集まって来た。キランさんは後から来たポータ達が酒を飲み、騒ぎ、揚句の果て喧嘩までするから、此処を引き上げ、下にテントを張るように機転を利かせた。我々は20時頃寝たが彼らは夜中まで唄を歌い、床を踏み鳴らしながら踊っていた。 

4月24日(木)  行動 4日目

6:40 チェトラ発   9:30 〜 11:00 昼食   13:15 コテ ( 3550 m )

 一昨日、昨夜と20時から22時頃まではぐっすり眠るのだが、その頃急に暑くなり、靴下、二枚履いているズボンの一枚、ヤッケを脱ぐ。その後はうとうと状態の浅い眠りで、朝起きた時よく寝たという感じがしない。頭痛、食欲不振も無く、体調も良いが、高度による軽い睡眠障害が起こっているようだ。

チェトラよりガレ場をトラバース気味に4、50分行くと石楠花の中の急な下りになる。更に4、50分下ると大きな岩のすぐ下に石造りのバッティが有り、そのそばに沢もある。

その次のバッティは竹造りで、表で休憩後、先に行こうと2、30m下り始めると、ここで昼食にすると呼び戻される。米を炊き、醤油で味付けしたおにぎりが出る。ここでザトル・ワラ 峠を通らない別ルートから来たパーティと出合う。こちらのルートは2日余分にかかるそうだ。1時間半後、食べ過ぎ腹九分目になって重たくなった体にムチ打ち、出発する。

3300mまで下り、幾つかのUP,DOWNを繰り返し、ヒンクーコーラの河原に出る。ヒンクーコーラは98年に上流の氷河湖が決壊し、様相が一変したらしい。川の両岸に道があるが、対岸側は荒れ、至る所で崩壊している。河原を15分歩くと3軒の無人の竹造りの小屋があり、グンさんがコテと言ったが、実際は更に45分歩いたところがコテであった。此処には4、5軒のロッジが有り、木を切って建築資材にするきこりも働いていた。

 他よりは少し貧弱な竹造りのバッティに入り、チャを飲む。このバッティのお姉さんは美人だ。コック、キッチンボーイは此処を借りて炊事を行う。

4月25日(金)  行動 5日目

7:30 コテ発   10:50 〜 12:00 昼食   13:15 タナ手前 ( 4200 m )

ヒンクーコーラの河原を歩く。右手にメラピークの西壁、南壁、中央にクスムカングル(6369 m)が見える。単調な河原を約3時間歩き、河岸段丘の上に向かうがルートが不明な為、10mの崖を強引に登る。登ったところに偵察に行ったグンさん、ヒラさんが迎えに来る。またキッチンボーイがホットレモンを持ってきた。瓶詰めで砂糖が入った濃縮レモンをお湯で割ると簡単にホットレモンが出来、バッティではチャかホットレモンを出してくれる。そこから5分歩くとコック達が昼食の支度をしていた。風が強い為、ブルーシートを風避けに使って調理している。

昼食後、風を避け30分のシェスタ(昼寝)。昨日、今日は天気が良い。途中崖ぷちに建っている小さなラマ教の寺院を訪れ、内部を見る。

今日はタナの予定だが、他のパーティもそこに泊まり煩いので、約20分手前の緑があるバッティの所に泊まる。

休憩後、タナまで高度順化を兼ねキッチンボーイと偵察に行く。ロッジ、農家が数件有り、農家は牛や山羊が中に入らないように周りを石で囲んだ畑を耕していた。他の遠征隊の報告書では畑でジャガイモを作ると有る。

今朝馴れ馴れしく我々のテントに来て話し込んでいた二人組の男が夕方バッティの主人、キランさんと大きな声で話をしている。彼らはマオイスト(ネパール非合法共産党毛沢東派で、ネパール中西部地域を中心に活動。政府の転覆を目指す「人民戦争」を1995年から続けている)で金品の寄付を強要し、キランさんは500ルピーを払ったらしい。一説によると領収書を発行し、他のマオイストが再び寄付を強要した場合は、その領収書を見せると引き下がるとあったが、キランさんが領収書を受け取ったかどうかは判らない。マオイストはネパール最大の問題のようだ。

マオイストの詳細はインタネットで検索すると、多くの記事が有ります。

夜ポータ達が闇夜で焚き火をしているので、一緒にあたりバカ話をする。

4月26日(土)  行動 6日目

7:30 タナ手前発   11:03 カレーBC ( 4900 m )   12:20 発   5150m まで順化    15:00 BC着

30分歩くと急な登り、その先はだらだら登りとなる。ベース手前のディグ カルカ ( 4700 m )で休憩。ホットレモンをバッティで出して貰う。バッティでのチャ、ロキシー等の費用も遠征代金US$ 1226/人の費用に含まれ、個人でお金を使うことは無い。

此処から見るメラ ピーク北壁、懸垂氷河がすごい。BC は石造りの恒久的なカルカ、周りを石で囲み、編み竹、ブルーシートで屋根を葺いたカルカ等、4、5軒点在する。またバッティも有り、ビール、コーラ、ロキシー、インスタントラーメン、ビスケット等も売っており、お金さえ持っていれば空身で来ても食べられる。

BCにて昼食後、高度順化に出かける。外人の5、6人のパーティと前後するがその中に一人小太りがいた。あれじゃ登れないなと思っていたら、3、40分でバテテしまい、先に下山した。途中ガスりだし、風も出、アイスバーンの所も出て来たので引き返す。16時過ぎ、雷、雪で5cm積もる。

BCで今日は!と日本語で話しかけて来たシェルパがいた。ミンマといい、室堂、芦峅寺に一年間いたそうだ。カトマンズにあるNGOの医療関係の仕事で、登山者の医療をボランティアで行うためにBCに来ているという。

他にシンガポール人の3人パーティのうち1人がいた。高度順化出来ず、BCにいるとのこと。シンガポールは国土も狭く、山も無いので、基本的には山を登る習慣がなく、またそのような人もいない。彼は4回目のネパールで、初めての登山と言っていた。

4月27日(日)  行動 7日目

7:00 BC発   10:50 ? 11:40 Hi Camp ( 5750 m )   13:15 BC着

 Hi Camp まで順化に行く。サブザックはヒラさんが背負っているので、空身で行く。

昨夜はほとんど眠れなかった。3、4回小キジをうちに起きる。耳が寒く、上半身も寒い。ヤッケを着ると暑くなり、脱ぐ。靴下も脱ぐ。咳が出る。だけど頭痛は無く、食欲も有る。

 頭がボーとし、休憩後の行動開始時に酸欠でふらつく。マッキンレ、アコンカグアでもこの様な状態を経験しているので。別に気にはならないが、眠れなく、思考力が低下しているのが辛い。マッキンレではアタック前日に睡眠薬を半錠飲み、ぐっすりと眠れたが、今回は、睡眠薬は持ってこなかった。それでも順化のせいか昨日よりは良いペースで登る。

 5400 mのメララ キャンプではキランさんが知っているハイポータにチャを御馳走になる。遠くに見えていたHi Camp の岩峰も段々と近づいて来た。

 Hi Camp は風を避ける為、岩峰の下にテントが張ってある。場所は狭くせいぜい6.7張りであろう。その下は数十m切れている。

 茂呂先生、大内さんのアイランド ピークのコックが別のシンガポールパーティのコックとして来ている。

我々のコックが昼食に用意してくれたパン、チーズ、ゆで卵を食べ、ジュースを飲み、しばし休憩する。下りは小走りでメララ キャンプ近くまでキッチンボーイと30分行動する。さすが後半は疲れた。

BCの中国系シンガポール人の3人パーティのうち1人がHi Campから5時間かけ登頂。もう一人はHi Campから少し登ったところで体調不良で断念。BCのバッティで登頂祝いに彼らが高価なビールを御馳走してくれた。 16日の予定で来ているが遠征期間としては短い。

4月28日(月)  行動 8日目

雪の為、停滞。

昨夜は行動の疲れかぐっすりと寝ることが出来た。朝起きると雪が降っていた。

シンガポール の3人が雪の中、下山する。

 何もすることが無く、例によってロキシーを飲み始める。竹沢先生、キランさんは1日中飲んでいる。私も押さえ気味に2杯飲んだ。

4月29日(火)  行動 9日目

6:50 BC発   11:30 Hi Camp 着    13:30 順化に出発 5930 m    15:00 Hi Camp 着

停滞で身体を動かさなかったせいか眠れなかった。竹沢先生、グンさん、ヒラさんのハイポータ2人、コック、キッチンボーイ 2人、ポータ 3人 計10人で出発する。竹沢先生、キランさんは二日酔いらしく、酒臭い。キランさんは二日酔いがひどいので停滞。テントを運んでいたポータがメララ キャンプから下山する。Hi Campでは我々のテントを使わず、アイランド ピークで一緒だったコックのテントを使わせて貰うことになった。

 メララ キャンプを過ぎた辺りから雪。Hi Campにて昼食後、ガス、風、雪の中、竹沢先生と順化に出かける。

トレースは消えかかり、視界も悪いが所々にある竹ポールを目標に約1時間行動する。

Hi Campでは別のシンガポールのパーティの一人と話をする。彼らは秋にエベレストを登る計画で、そのトレーニングに来ており、ピークを何度も登るそうだ。又来年はチョユーに行くと言っている。 テントで休んでいると雪の重みでテントが傾き、溶けた雪が水となってシートに溜まってくる。まるで日本の春山だ。

キジ撃ちも気を付けないと斜面の雪でスリップし、数十m滑落する。

4月30日(水)  行動 10日目

5:45 Hi Camp 発  10:00 〜 10:30 休憩後、下山(約6300 m)   12:00 〜 13:30  Hi Camp  14:50 BC 着

1、2時間眠った後、22時過ぎから眠れない。1時頃音がしている隣のキッチンテントをキジ撃ちついでに覗く。キッチンボーイ、コックが雪を融かし、水を作っている。再び3時頃キッチンテントを覗くと、ロウソクは点いているが、みんなぐっすり寝ていた。眠れないまま10分おきに時計を見、4時20分食事の支度が出来ているはずのキッチンテントに行くが全員寝ており、なんの準備もしていない。他のテントで寝ているグンさんを大声で起こし、急いで食事、出発の準備をさせる。
 昨夜、4時起き、5時出発と話をしていたのに彼らは寝過ごしたようだ。5時45分途中までサポートを申し出たグンさん、ヒラさんと一緒に出発する。ハイポータの彼らはアタックをサポートする義務は無いが、好意で先頭に立ってラッセルしてくれる。靴もボロボロで所々穴が空いている軽登山靴で雪の中を歩き、凍傷が心配だ。

1時間後二人と別れ、竹沢先生と交代でラッセルする。雪は30 cm位だが、6000mの高さを二人でラッセルするはしんどい。3パーテイ約20人がかなり後ろに見え、我々の登るスピードは早くはなく、トレースが有る分彼らは楽なのに、なぜか追いついて来ない。

急な所を斜めに喘ぎながら一歩二歩と数え、百歩を目指して登る。この時点では風も無く、天気も良く、暑かった。

少し平らなところで休んでいると、ようやくクライミングシャルパと外人一人が姿を現した。彼らも休み、その後先行した。シェルパがトップでラッセル、スピードも早い。$300の高給取りのクライミングシエルパは自分の仕事はしっかりやっている。しばらくするとシェルパが目の前でヒドンクレバスに太股まで落ち、次の私は慎重にクレバスを越え、無事だった。竹沢先生もシェルパが落ちた所を避け、慎重に越したつもりが太股まで落ち、最後に残った身体の大きな外人は、腰まで落ち慌てて引っ張り上げた。

此処で彼らはザイルを付け始めたが、我々はザイルは不要と考え、Hi Campに置いてきた。

シェルパに先行するように頼んだが、彼も嫌がり我々の後に行くと言った。我々はザイルを持っていないので先行してくれと言ったら、彼はザイルを持っていないのはクレージーだと言い、私のストックの片方を貸り、それを前方雪面に刺し、クレバスを確認しながら登って行く。この頃からガスり始める。クレバスからしばらく登ったところで様子を見る為、両パーティ共休む。外人はこの高さで満足したらしく、写真を撮り、誰かの写真を雪に埋め、下り始めた。

我々はもう少し粘ったが、ルートがだだぴろく、雪が降り、風も有りホワイトアウトでルートファインディングが困難、またクレバスが心配で、あと1.5か2時間で頂上と思われる6250mか6300mの地点あたりで泣く泣く断念した。下りはクレバスに用心しながら、所々トレースが消えかかっている所を行く。

Hi Campに帰り、登頂出来なかったことを話す。ヒラさん、グンさんは登頂後、1時過ぎには帰ってくるだろうと話をしていたらしい。キッチンテントで休んでいると今日は停滞しているエベレストを目指しているシンガポール人が様子を聞きに来た。またキランさんがポータを連れ、雪の中を登ってきた。竹沢先生は明日再度此処からアタックしたいらしいが、私は昨夜余り眠れなかったので一旦BCに戻り、そこからアタックしたい旨を話した。竹沢先生が折れてくれ、全員で雪の中BCに下る。Hi Camp、下りで身体が冷え、風邪気味になる。BCも雪。

5月 1日(木)  行動 11日目

バックキャラバン カーレ BC → コテ ( 3550 m )

 今日はBCからアタックする予定が上部がガスっており、何処のパーティも行動していない。我々もアタックを諦め、今日下山を決意する。雪がチラチラするなかディグ カルカを通る。ここのバッティも閉まっていた。タナを通り、来る時に泊まったバッティにてコックが作った昼食をとる。その間BCのバッティのお姉さんが下りて、用事を済ますとまた帰っていった。
 昼食を済まし、歩き始めるとかなり降っていた雪がみぞれになり、それが大雨に変わった。傘を差し、身体が冷え、手が冷たいのを我慢しながら、コテを目指す。コテでは来る時にもお世話になった質素なバッティに入り込み、煙たいのを我慢しながら、かまどの側に寄り身体を暖める。

 カトマンズ空港の免税店で買い、登頂祝い用に持って来たシーバス リガールのウィスキを残念会のつもりでみんなで飲む。アタックの時最後に一緒だったオーストリアのパーティがそばにテントを張っている。精悍なクライミングシェルパはすぐ解るが、その時一緒だった大男は解らない。

5月 2日(金)  行動 12日目

7:30 コテ発              13:30 チェトラ ( 4100m )

アタックの日から身体が冷え風邪気味となり、また連日の睡眠不足も加わり、調子が良くない。だけど食欲旺盛。

オーストリアパーティの中にロングスカートをはいている女性がいる。まさかそれで行動するとは思えないが、山中でロングスカートの女性を見ると異様な感じがする。

曇りの中出発する。来る時は渡渉した沢も水が少なく、飛び石伝いに渡る。来る時に坂の途中で昼食をとったバッティでホットレモンを飲む。中学生くらいの女の子と70半ばと思われるおばあさんが賄っており、おばあさんは元気そうだ。

次に大きな岩のすぐ下の石造りのバッティで昼食をとる。このバッティには坂の途中で周りに何も無いので、チャを飲みに他のパーティのシェルパ、ポータが入れ替わり、立ち替わりに来る。この為、今までのようにゆったりしたペースで食事をとることが出来ない。この日も寒いが、家の中は比較的暖かい。オーストリアパーティは沢のそばで昼食をとっている。後半の急登は身体が重く、息も上がり、一緒に出た竹沢先生との差が広がる一方。

峠からガス、風がひどくなり、視界が利かなく、途中から雪も降り出した。吹雪の中、目の前にチェトラのロッジが見えた時はようやく安全圏に入りほっとする。ロッジの中は広い為か、寒い。オーバズボンをはき、セータ、ヤッケを着ても未だ寒い。おまけに咳も出る。かまどのそばに居座り、ロキシを飲むが、暖かくならない。外は猛烈に吹雪いている。

 夜中咳が出て眠れない。気を落ち着かせる為、吹雪の中2回小キジに行く。今夜はポータ、シェルパ、キッチンボーイ、コックの全メンバがこのロッジに泊まる。

5月 3日(土)  行動 13日目

7:30 チェトラ発              11:30 チュタンガ

昨日かなり雪が降ったが、風が強かったせいか、あまり積もっていない。天気も何日か振りで晴天となる。ザトル・ワラ 峠に登るのも息が上がり、最後になってしまう。峠の雪は帰りにはほとんど無いと考えていたが、全然減っていない。クラストしていると危ないので、ポータの為に峠の下りとトラバースにはザイルを出す。ポータが下り、回収する予定のザイルを他のパーティのポータが使って登って来る。それを何とか回収し、トラバース用に使うが、ヒラさん、グンさんはザイルの使い方を知らず、末端は固定しない、確保は出来ない等ザイルがただの飾りとしか思えない。ポータの一人が2度スリップしたがすぐ止まり、無事だった。

テン・カルカで大休止。来る時にキランさんが落としたザックカバーが保管してあった。テン・カルカから前方足下のルクラを見ながらのんびり下る。今まで寒かったが、急に暑くなりだし上着も脱ぐ。草もあまりはえていなかったチュタンガは草が青々と生い茂り、ヤクも放牧されていた。明日はルクラで、遠征も終わるので、ポータ、シェルパ、キッチンボーイもリラックスし、沢で服を洗濯したり、頭を洗ったりする。私もシュラフを干す。持って来た行動食はみんなに分け、ズボンやセータはグンさん、ヒラさんに御礼の意味でやった。

全員の集合写真をとり、4時頃から外で竹沢先生、キランさん、グンさんを交えロキシを飲み始める。私はすっかり酔ってしまい、テントに移動し寝てしまう。ヒラさんが心配し、夕食を呼びに来たが腹も減っておらず、眠たかったのでそのまま寝てしまう。

5月 4日(日)  行動 14日目

8:20 チュタンガ    9:50 ルクラ

 昨夜は久しぶりにぐっすり寝た。朝食はスープをお代わりし、昨夜の分まで腹一杯食べた。ルクラには途中休憩を挟み、1時間半で着く。H.シェルパ ロッジに荷物を置き、チャを飲み、くつろぐ。風邪薬が無くなったので、坂の中腹に有る診療所に薬を買いに行く。咳がひどい旨説明し、アレルギ―の有無を聞かれたので無いと応え、錠剤と赤い水薬を貰う。

昼食後、ルクラの街を散策する。背後には山が迫っており、平地は狭いが、登山客目当てのロッジ、山装備屋が幾つか有る。小学校に竹沢先生、キランさんと行き、職員室で学校の住所と名前を聞く。竹沢先生は日本では笛等の音楽教材は学期が終わると使い道が無く、毎年段ボール箱で捨てているので、知り合いの小学校の先生と相談し、出来れば送りたいと考えているとのこと。

通りでは日本人の姿をチラホラ見かける。我々を見て、一杯おごってもらいたいですねと声をかけて来たおじさんがいた。無視したが、竹沢先生と何だあいつは!どういうつもりで声をかけてきたのだろうと憤慨する。帰りに私がルクラに来るまで先生がグンさんと毎晩行った飲み屋に寄り、ロキシを飲む。コックの妹が働いており、コックも遠征が無いときはここで働いているそうだ。

 夕食前にチップを一人一人手渡す。キランさんに$80、コック、ハイポータ等に計$75。心情的にはもう少し上げたいが、我々は貧乏隊だとキランさんに話す。コックが作った今回で3度目のケーキが出る。スポンジも上手く出来ており、クリームも旨い。ポータを含め全員で食べる。

5月 5日(月)  行動 15日目

比較的早く朝食を済ませ、みんなと別れの挨拶をし、空港に行く。みんなはキランさんを除いて、5日程離れた村に全員帰るそうだ。来るときは飛び立つのが一番遅かった我々が乗る飛行機は今度は早い。ヒラさんが飛び立つまで見送る。カトマンズで飛行機から降りると暑く、Tシャツ1枚になる。

タメール ホテルでは予定より早く下山して来た為、受付の女性は部屋が無いと言う。シャワだけの部屋で良いかと聞いてきたので、バスタブがないとダメだと答え、捜して貰い、部屋の掃除の間、約1時間待つ。竹沢先生が栃木県烏山出身の日本大使の神長さんに電話をし、秘書役の公使と明日6日16時に大使公邸で面会のアポをとる。キランさんと別れ、久しぶりにシャワを浴び、バスタブに浸かり、さっぱりして昼食に出かける。

5月 6日(火)

ネパール山岳協会へ下山報告及びキランさんゴミ持ち帰りにより、デポジットの受け取り (ゴミを持ち帰らないとデポジットは没収らしい) 。受け取った資料の中に二人の登頂証明書が入っていた。キランさんに理由を聞くと二人とも先頭を切ってラッセルした、体力もあり、体調も良かった、天候さえ悪くなかったら問題なく登れた。そのことはアタックの最後まで一緒だったクライミングシェルパも言っていた。それで申請したと話をしてくれた。もらったのは良いが、人に見せるわけもいかず、複雑な気持ちだ。

その後タメール地区をブラつき、キランさんが刺繍屋にてメラピークの刺繍が入ったTシャツを竹沢先生と私に2枚づつプレゼントする。

先生はキランさんも大使公邸へ行こうと提案し、公使に電話をすると日本人だけのお茶会なので遠慮願いたいと話があり、そのことをキランさんに話をする時、申し訳ない気がした。

大使公邸前に4時15分前に着き、4時丁度に守衛所に行く。ネパール人の給仕に玄関から応接室に案内され、しばらく待つと、大使の奥様が来られた。大使公邸等というところは初めてだが、応接室は高級ホテルのロビー並で前面が総ガラス張り、グランドピアノ、ステレオ等の音響装置、立派な応接セットが有り、部屋もものすごく広く、ゆったりと器機が配置されている。さすが日本を代表してネパールに来ている人の住まいだけある(と言っても、国民の税金で建てられているので、私も利用する権利は有ると思うのだが!)。奥様と話をしていると、年(60才)よりは若く見える神長大使が来られ、次に東京農大の関係者二人(今春エベレスト遠征の応援で、BCまでトレッキング)、旅行会社のヒマラヤ観光の古口(こぐち)さんも来られた。今年はエベレスト登頂50周年記念の年にあたり、33パーティがエベレストの頂上を目指し、70才の三浦雄一郎やイタリアのスキー隊(オリンピックに出た男女数名が参加)等、話題性が有るパーティで盛り上がっており、ベースキャンプはテントを張るスペースが無いくらい込み合っているそうだ。ケーキ、紅茶、ハーブティを御馳走になり、大使夫妻のホテル エベレストビュへのトレッキング、大使の故郷 烏山、前任地のオーマンの話を聞く。2006年に栃木県の有志でエベレスト遠征の計画が有ると話をしたら、その年は日本、ネパール友好50周年なので頑張るようにと言われた。

最後に玄関ホールで記念撮影をし、3人は待たせていたタクシで、我々は奥様が使われる四駆車で送ってもらい、それぞれのホテルに帰った。

5月 7日(水)

 カトマンズ滞在

5月 8日(木)

 カトマンズ滞在

5月 9日(金)

 カトマンズ滞在

5月10日(土)

竹沢先生は昼のタイ航空でバンコック経由成田へ。私はキランさんと竹沢先生を空港で見送った後、ホテルに帰り、午後4時過ぎ再び空港へ。それから夜11時30分発のロイヤルネパールを一人ぽっんと長い時間待つ。

 帰りは超過料金を取られないように、居合わせた二人の日本人に事情を話し、グループの荷物として計量を行なってもらい、60kg/3人 以内とした。

5月11日(日)

 中国はSARS ( 新型肺炎 )が流行っているので、途中上海に停まらず直接関空に飛ぶ。そのせいで、約3時間早く着いた。

あとがき

国内の旅行代理店で今回の費用の見積りを行ったところ約50万円/人(日本〜カトマンズ 往復飛行機代込み)であった。高いと感じ、茂呂先生の教え子で鎌田さんのネパール人の御主人(タパさん)より、ガイドのキランさんを紹介して貰った。

キランさんの見積りは1226 US$/人+ 350 US$ (国立公園費 etc、max 4人)=1401 US$/人 ( US$=120円   168,120 円/人、カトマンズ〜ポカラ 往復17日間 (日本〜カトマンズ飛行機代除く)で、日本〜カトマンズ 往復飛行機代を入れても約30万円で済み、こちらに依頼した。当初FAX、次からはE-mailで情報交換を行い、安い費用で遠征を行うことが出来た。

 1975年に 平塚峰渓倶楽部のメンバーとして チュウ-レン ヒマール(7371m)に行って以来実に28年ぶりのネパールで、どのように変わっているか楽しみであった。

 変わっていたのは空港が綺麗になり、車、バイクが増えた、大半の人が腕時計をしている、ほんの少しゆとりがある人はラジオを持っている(昭和30年前半の日本のTVと同じ感覚 ?)等で、相変わらず道ばたには種々雑多のゴミが捨てて有り街は汚い、道路には大きな穴が開き、舗装がいい加減な為埃がすごい、カーストも残っている等は変わっていないように思えた。

 4月中旬に入り、午後からは曇りのパターンが続き、それでも4/21の週は晴天で、帰ってくるパーティはサクセス、ルートも非常にイージィと話をしていた。4/30に5800mのハイキャンプからアタックを行い、連日の降雪でラッセルが大変(約20人の4パーティがいたが、他パーティは非常に遅く、なぜか我々が先頭をきってラッセルを行った。これはメラ ピークは簡単な山との認識で、バリバリの精鋭パーティは来なく、どちらかというと高年、ヨロヨロパーティか、初心者でシェルパに全て頼り切っているヒヨッコパーティのどちらかであった)、最後まで残ったシェルパ、オーストリア人、竹沢先生(二人パーティの60才の相棒)の3人がヒドンクレバスに落ちる(腰程度)、ガスって来、ホワイトアウトの中、ルートが判り辛い等10時から約30分様子を見ましたが状況は悪くなる一方で、泣く泣く約6250m、あと1.5〜2時間あたりで断念した。その後も天気が悪く、4月後半、5月前半のパーティはほとんど登れなかったと思う。ネパール全体の天気も悪かったそうです。非常に残念でした。

 どこの山に行ってもそうですが、早朝から行動するパーティは常に日本人で、ラッセル等馬鹿を見ます。竹沢先生とビスタリ-に行きましょうと話をしていましたが、他パーティがあまりにも遅く、後ろから付いて行くには、日が暮れてしまうので、やむなく二人でラッセルしました。

 メラ ピークは天気さえよければ、目をつぶっていても(例え)登れる山で、山スキーで行動するには最高のようでした。

以上 

4/20 ネパール航空412  関空発12:30     カトマンズ着18:15

5/11 ネパール航空411  カトマンズ発 23:45   関空着11:20

航空券              ¥102,000 (ロイヤルネパール) +関西空港施設使用料(\2,650)+航空保険料(\800)は加算

飛行機荷物超過料金( 9 kg )  ¥9600 ( 関西空港 )

入山料 $350 (1グループ 4人まで)

現地費用 US $1226/人(空港送迎、カトマンズホテル代 朝食付き、キャラバン、登山期間の食料、テント、マットレス)

 ビザ30 US$ ( カトマンズ 空港で取得 ) + カトマンズ空港税 15 US$

日本より持っていった食料

梅干し、振りかけ、ラーメン、α米、海苔、飴、ビスケット、煎餅、カリントウ、コーヒー、お茶等 約8千円

共同装備はガイドが用意した物で足りた。

メラピークの写真

雰囲気が解る程度に写真の一部を抜粋しました。

空港待合室
2003年4月20日(日)中国上海空港経由でカトマンズへ
SARSがはやっている為、乗客はマスクをし、一室に約1時間閉じこめられる。
飛行場

ルクラ飛行場 ( 2800 m )Sita Airの飛行機に乗る。
カトマンズの空港に着いたのは6時頃だが、他の航空会社の飛行機が先に飛び立ち、我々の飛行機は8時過ぎに飛ぶ。中央後方の白い建物は診療所
帰りに此処で、風邪薬を買う。( 6$/2人分)

テン カルカ
テン カルカ (4100m)
2日目は此処に泊まる。
少年
2003年4月22日ドッコの下にT字形の杖を置き、一本立てている(休憩)少年ポータ。
杖の下には磨り減らないように、鉄が打って有る。恐らく、彼の父親あたりも使っていたのだろう。
日本も昔ボッカはこういう風に休憩していた。雪渓を歩く時はズックにヒモを巻き、滑らないようにする
チュタンガをのぞむ

チュタンガ ( 3120m )初日はここに泊まるパーティが大半だが、我々は30分手前の緑が有る所に泊まった。(此処はテントを張る場所が土)

チェトラ
ザトル ワラ 峠の二つの峠を過ぎ、30、40分でチェトラ 4100mに着く。ここには二つのロッジが有る。後ろは大きな岩。
チェトラの朝
チェトラモーニング ティ、洗面用のお湯が出て、食事になる。4日目の朝の出発風景。昨夜はポータが夜遅くまで騒いでいた。朝は寒く、霜が降っていた。ハイポータ、ポータ、キッチンボーイは目出帽、マフラのほう被りで寒さをしのいでいた。
ピーク41
4月26日ピーク 41  ( 6649 m)
メララ近く
4月27日
Hi camp (5750m) に高度順化に行く。
左よりキッチンボーイ、キランさん、グンさん、ヒラさん、小生。メララ ( 5415m ) より、少し下の地点
Hi camp
4月27日  Hi camp (5750m)風を避ける為、岩峰の下にテントを張る。場所は狭くせいぜい6.7張りであろう。下は数十m切れている。29日にHi campに移動して来た時は、我々のテントを使わずに、シンガポール隊のコックの顔で彼らのテントを使わせて貰った。シンガポール隊のコックはアイランド ピークのコックだったので、竹沢先生共面識が有り、私を除いたメンバ全員が知っている。
最高到達点
4月30日 アタック 10時。最高到達点。多分6250 m位であろう。ガスり出し、少し下で、竹沢先生、オーストラリアのパーティのクライミング シェルパ、メンバがヒドンクレバスに落ちた。ガスが出てきたので彼らは下り、我々は30分程様子を見たが、天気は悪くなる一方で、ホワイトアウトになった。此の地点で泣く泣く下った。その後2日まで天気は悪かった。ルートは左側に回り込み、中央を目指す。

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